6月5日(土)に開催された青年海外協力隊OB会のイベントでお話をさせていただく機会をいただきました。
いただいたお題は、アジアの教育事情でした。
とはいえ、僕はもう帰国して10年以上も経っているので、協力隊で学んだ事、生かしている事を話すことにしました。
「一緒にやろう 〜一緒につくる、育ちの場〜」がボクの発表のタイトルです。
自分を振り返る良い時間になりました。自分の原点を忘れないように文字に残しておこうと思います。
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今から皆さんに、「一緒にやろう」というテーマでお話をさせていただきます。これは、ぼくを今に導いてくれた、ばあちゃんの言葉です。
ここで皆さんと出会えたのも、世界がつながっているからです。そして、こうしてつながってしまったからです。皆さんと、仲間になれたらいいなって思います。
堤真人と言います。
ボクは、今、三重県の山間のまち、伊賀というところで、お坊さんをしながら
、生まれて初めて小さな学校、寺子屋を運営しています。
寺子屋には、小学校1年生から中学3年生までの子どもたち40名ぐらいが来ています。ここでは、どんな子どもも自分らしくいれることを大事にしています。
子どもは一人一人、学び方も違えば、学ぶペースも、興味・関心も違います。
違って当たり前です。でも、集団の中では違うことが大事にされないことだってあります。
ボクは、一人一人がユニークであることを大事にしたいし、されたいって思っています。
苦手なことは、教え合えばいいって思っています。
でも、バラバラにはなりたくないから、みんなで一緒にすることも大切にしています。みんなで駄菓子屋さんをしたり、本を作ったり、そんなことをしています。
ぼちぼちと充実した日々です。
でも、最初からこんなことを考えていたわけでも、していたわけでもありません。そんな話をしたいと思います。
ボクは38年前に伊賀に生まれました。
伊賀のお寺でした。ボクはじいちゃんやばあちゃんや檀家さんに可愛がられて、伸び伸びと育ちました。野球が大好きな少年で、気づけば毎日野球をする野球少年になっていました。
少年野球団にどっぷり浸かり、夢はプロ野球。
そんな少年時代でした。でも、6年生ぐらいから雲行きが怪しくなりました。母が教育ママと化したのです。ぼくの野球の日々は無機質な塾の日々に変わりました。家に帰っても、いつも勉強ばかりです。
「いい学校に入るのよ。いい大学に行くのよ。」
大事な野球の試合にも行かせてもらえず、ただただ偏差値を上げるために勉強をしていました。お正月だって塾の合宿です。
そして、その甲斐もあって進学校と呼ばれる中学に合格しました。喜んでいたのは母だけでした。ボクはやっと終わるという気持ちだけでした。
そんな気持ちで入った学校です。当然レベルについていけず、成績も悪いし、気力もありません。その怒りはいつしか親にぶつけられるようになりました。
そうしないと自分を保てなかったのでしょう。たくさん反抗しました。
ボクはどんどん自信をなくし、どんどん嫌なやつになっていきました。父は大阪の勤務先に朝早く出て、夜遅く帰ってくる生活でなかなか話す機会もありませんでした。
でも、ボクには心の支えになってくれる人がいました。
それは昔からの伊賀の友人と、ばあちゃんです。
ばあちゃんは、いつも味方になってくれました。いつも励ましてくれました。ばあちゃんはお坊さんだったけど、生花教室や習字教室、子供会とかいろんなことをしているパワフルな人でした。スリランカで幼稚園を建てる活動もしていました。そんなばあちゃんがよく言ってた言葉があります。
「たくさん遊びなさい」
「一人でやるんじゃないよ、一緒にやるんだよ。」
何度もこの言葉を使っていました。それは、仲間と共に歩んでいるばあちゃんだから出てくる言葉だったんでしょう。
ボクはそんなことも知らず、この言葉だけを覚え実践するようになっていました。
高校も大学も、遊びがいつも優先でした。だって、ばあちゃんの教えだからです。でも、流石に遊び疲れ、「このままでいいんだろうか」
そんな不安を持つようになりました。大学生の頃だったと思います。
そんな時にテレビ画面に映ったのが、9.11のテロの映像です。
ja.wikipedia.org
ボクは、この映画のような光景にびっくりしてしまいました。いったい世界で何が起きているんだろう。この時初めてボクは、学びたいという気持ちに出会った気がします。
受験勉強が学びだと思っていました。でも、受験勉強は合格と同時に全て抜けてしまっていました。
この光景の背景なんて全然分かりませんでした。
勉強ってなんでしょうか?受験を勝ち抜くためだけのものでしょうか?全然違います。勉強は物事を深く捉えるために自ら学ぶことです。僕は初めて、学ぶことに向き合いました。
そんな時に出会った本があります。辻信一さんが書かれた『スローイズビューテュフル』です。大学の本屋さんでした。
ここには、貧困や環境問題の原因は先進国で暮らすボクたちの生活に大きな原因があると書かれていました。
例えば、地球温暖化が進んだのは何故でしょうか?私たちの暮らしとは無関係でしょうか?世界には豊富な食料があるのに、平等に分けられていないのは何故でしょうか?
原因を知っていくうちに、ボクは苦しくなりました。自分たちだけ、こんなに恵まれていていいのかって。今思うと、純粋だったなぁって思います。
当時付き合っていた彼女の誕生日に花火大会に行きました。
「この綺麗な花火大会の向こうには、苦しんでいる子どもたちがいるんだ。だから、ボクはこんな綺麗な花火は見れない。」
案の定、ふられました。それぐらい、世界の問題を考えようとしていたのでしょう。いつの間にか、問題を生きるようになっていたんですね。
たくさん本を読みました。大学院に行って本格的に学びました。でも、どこにも解決策も書いていませんでした。それどころか、問題は深刻になっているような気がしました。
そんな時に、恩師に「頭でっかちになってるよ。問題を生きるのではなく、今を生きなさい」と言われました。なるほどって思いました。汗をかこうって思いました。
電車に乗っていると、こんな広告がありました。
もう迷いはありませんでした。青年海外協力隊に参加しようと即決しました。
すぐに協力隊の試験を受けました。
合格発表の1週間前にボクは友人とフィリピンにいました。食あたりをして旅行期間ずっと、ベッドの上でした。「もう二度と行きたくない」そう言って帰ってきたことを覚えています。
そして合格発表。派遣国には「フィリピン」と書かれていました・・・
こんなことがあっていいんだろうか・・・運命を感じる。そうして、2007年3月にフィリピンに旅立ちました。
ボクの任地は、フィリピン中部のボホール島という珊瑚礁に囲まれた美しい田舎の島でした。フィリピンのカオスなイメージとはかけ離れたのどかな島です。
自宅近くの海はこんな感じでした。配属先の島の教育委員会は海の上の建物で、窓を開けるとエメラルドグリーンです。
あー綺麗
観光名所で、手のひらサイズのお猿さんもいます。めちゃ可愛い。
島はとても長閑でした。急な雨にもバナナの葉っぱで解消します。
これ、ボクがしたら全身びしょびしょになりました。
ボクの仕事はというと、SBTPというJICAプロジェクトに関する隊員でした。先生の授業力を向上させるのが目的の、教員研修を企画するというものです。
だから、ボクは小学校教諭という職種で行きましたが、学校配属ではなく、教育委員会配属でした。今は、こういうの多いのかな。
教育委員会配属で、教師よりも立場が上の人たちと仕事をするので、全ての先生がボクのことをSir.Tsutsumiと言いました。24歳にして、なんだか偉くなった気がしました。
早速、ボクは島の小学校の授業を見に行きました。
いいところ探しではなく、粗探しをしに言っていました。先生の黒板の使い方が悪い、教材をなぜ作らない、子どもを大事にしていないとか、そんなことばっかり記録していました。その記録をもとに、ボクは教員研修をプログラムしました。
面積は、こうやって教えるんだよ。こういう教材を手作りでできるよ。もっと頑張ってよって、そんなことを話していた気がします。
でも、この教員研修後、島の先生たちの目がとてもよそよそしくなりました。学校へ行っても教室に入れてくれないこともありました。
研修をしても何も変わってはいませんでした。
なんでもっと先生たちは頑張らないんだ。
ボクはイライラするようになっていました。
現実逃避するかのように、首都マニラに行って遊んだり、近くの島の隊員と遊んだりして、愚痴ばっかいっていました。もう赴任して半年が経っていました。
そんな時に島の男の先生に言われたことがあります。
「勝手に日本からやってきて、うちらの言葉も文化も大事にしてないのに、偉そうにすんじゃねー!!」
全然、島の言葉が分からなかったのに、この時だけははっきり分かった気がします。
頭をハンマーで殴られたような衝撃がありました。ボクが気づいていたことを言われたからです。自分が嫌われていること、なぜ嫌われているかだって実は知っていたのです。
ボクは支援者は、被支援者を支えるものだと思っていました。でも、それは全然違いました。
いつも、もちつ持たれつなんです。ボクがボホールで生活できていたのは、それを支えてくれる人がいたからです。そこに生きる子どもがいて、先生がいたからです。何もボクがすごいわけじゃない。お互いにギブしあい、テイクしあえばいいだけの話なんです。
ボクは誰よりも差別の意識を持っていたのかも知れません。日本の方が優れているぜって。
そんなやつを誰が受け入れてくれるでしょうか。そこからボクは変わりました。
こんなふうにwww
思えば、協力隊の面接で、「任地の人とどうやって仲良くなりますか?」という質問の際に、「酒とダンスです。」と真顔で答え、ひんしゅくをかったことがありました。
それでも合格しました。つまり、酒とダンスが認められたんだって思って、それを実行しました。失敗したらJICAのせいですww
本当にダンスww
島の言葉を話、島のモノを食べ、現地で暮らす。それをモットーにしていました。
そんなことをしているうちに、言葉もかなり覚え、どうもあの日本人めっちゃおもろいやつやだと噂が立つようになりました。
すると、学校の先生たちも変わっていくのが分かりました。心を開いてくれるようになりました。
真人、授業をしてもらってもいい?
真人、これってどうやって教える?
真人、遊びに行こうよ。
真人、金かして。
すっかり現地に溶け込むことができました。帰国するまで日本人とは会わない。いつも任地にいる。全て任地。そう言い聞かせていました。
いつの間にか、フィリピンの人にフィリピン人と間違えられるようになっていました。
あれだけやりたかった活動も軌道に乗り始めました。協力してくれる人がたくさんいたからです。
「いろんな理由で学校に行けない子がいるから、土日に補習をしたいな。」
ボソッというと学校の先生が協力してくれました。
いつの間にか、時間のある子どもたちが集まるようになりました。
日本の隊員とお祭りをしました。
たくさん集まってくれました。大盛り上がりでした。
「真人、うちの施設を手伝ってよ。」
親のいないこどもたちとたくさん遊びました。
いつの間にか、島の先生たちは戦友になっていました。たくさん語り、たくさん笑い、たくさん喧嘩しました。
これって、ボクがすごいのでしょうか?
全然違いますね。ボクを輪に入れてくれた人達がいたから、そして、学校に通う子どもたちがいたからです。いや、その島の暮らしがあったからです。
ボクは、何も残せなかったし、力不足だった。でも、ボクの中から、自分がなんとかするとか、支援するという考えはなくなり、いつの間にか、支え支えられものだということを感じていました。
ばあちゃんが言っていた「一人でやるんじゃないよ。一緒にやるんだよ。」という言葉が、分かった気がします。おかげさまで二年間無事活動することができました。
2009年3月28日に帰国したボクは、4月からすぐに小学校の現場でした。5年生の担任でした。
慌ただしいまま、振り返ることもなく、怒涛の毎日です。
協力隊の2年間はボクに自信を取り戻させていました。それは過信にもなっていました。
同僚とぶつかることも多く、心身が乱れていきました。
たくさん研修会に行き学びまくっていました。もっと授業を上手くならないとって。
「俺はこんなに学んでいるのに、教科書だけを教えている先生なんてダメだ!」そうやって思う自分もいました。
そんな時にある先輩の先生に、「あなたの授業はうまいけど、いい授業じゃない。」
ボクははっとしました。気づいていたのです。流れるような授業で、学級も統率が取れている。でも、子どもと心で繋がっていないことを。
その時に思い出したのが、フィリピンの子どもたちでした。ただ、そこに集まり、みんなで一緒に授業を作っていた日々のことを。
ボクは、こういう笑顔が見たくて先生してんだったなって。
そこからは教室の風景だって変わりました。いつの間にか、誰が先生か分からないようなメダカの学校のようになっていきました。
子どもたちは温かく繋がり、学び合う仲間になっていました。
こんなことがありました。
ある子は、歌が大好きでした。ある子は太鼓の達人が大好きでした。二人で、ドラム&ボーカルグループを結成して、休み時間に遊んでいました。その子には、いつかコンサートを開きたいという夢がありました。みんなで相談して、開くことにしました。広報はクラスの友達がしています。
そうして迎えたライブ当日。一階の踊り場には200人ぐらいの観客がいます。
ファンだってできました。初めてのサインだってやりました。
二人も、それを支えたクラスの子もとってもいい顔です。
自分のやりたいこと、得意なことを失敗を恐れずチャレンジすることの大切さを、子どもたちに教えてもらいました。
育つのは子ども。子どもは自ら育っていきます。
これはボクがすごい教師だからでしょうか?全然違います。子ども達が育とうとしているからです。ボクが育てたわけではないのです。子どもの力です。
いつも主人公は当事者なんです。これは協力隊の時と同じ。こちらが何かしよう、変えようとすると、無理が生じる。
見ていないようで見てる大人の優しい眼差し、子どもが安心して過ごせる場があること。大人ができることはそれぐらいかも知れません。できるだけ、余計なことをしないのが良いのかもしれません。
教育に答えはありません。ボクが正しいわけでもないです。それぞれができることをやるしかないと思います。
でも、これだけは真実。
「育つのは子ども」であること。
子どもが育つということを信じることを真ん中に置きたいと思うのです。ボクは、そんなことを胸に、生まれ育った伊賀に戻りました。
ボクには帰ったらやりたいことがありました。それは小さな学校を作ること。
子ども達が自分らしく、共に学び、共に笑うそんな場所。全ての子ども達が、幸せな子ども時代を過ごせる場所。
かつて、ばあちゃんがやっていたような寺子屋を。
みんなで一緒にやろうが合言葉。
時代が変わっても、ばあちゃんがしていたことと大して変わらない。
そこに子ども達が集い、共に育っていく。
子どもは自然と育っていく。育ちやすい環境を大人が整えてあげたらいい。そう思うのです。
ボクの力なんてしれています。だから、こうやって出会えた人達と一緒に、子どもが育つ場を一緒に作っていきたいと思います。
ありがとうございました。
追記①
ばあちゃんの大切さに気づいたのは、亡くなった後でした。今、会いたいって思います。会えないけど、ずっと見守ってくれているそんな気がします。
追記②
教育ママと化した母ですが、あれからいろんな反省があったのか、大学に通い、自分がかつてしてしまったような失敗を起こさないように、女性支援のNPOで活躍しています。
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