寺子屋 大仙寺の日々是好日

三重県伊賀にあるお寺。大仙寺の寺子屋ブログです。探究型の寺子屋です。HP → https://www.iga-daisenji.org/

寺子屋アートプロジェクト

小さい頃から絵が苦手でした。近くのお城に写生大会に行って、お城を観ずに、絵が得意な友達の絵を写していたことを覚えています。

 

うまい、下手って何をするにしても生まれます。スポーツであろうが、歌であろうが、なんでも。

 

理由は、人と比べてしまうから、比べられてしまうからです。本来、身体を動かすことも、絵を描くことも楽しいことなはずです。

 

ボクは大人になってから、アーティストの友人ができました。彼女が主催するワークショップにも参加しました。ボクが知っている図工の時間ではありませんでした。

 

誰とも比べることも比べられることもなく、自分の感性を開放していく時間。とても楽しかったことを覚えています。

 

アートは、自分のものの見方を変化させること。アーティストの友人に教えてもらったことです。

 

「りんごを描きましょう」と言われると、赤いりんごを描く人が多いかもしれません。でも、別に青りんごでも、りんごを食べているところでもいいわけです。

 

赤いりんごという固定概念を崩していくこと。それがアートなのだと思います。

 

そう考えると、上手だとか下手だとかに囚われずに思いっきりチャレンジしても良いと思うのです。

 

技術的な指導であれば、寺子屋ですることはできませんが、アート思考を探究することはできます。だって、寺子屋大仙寺は探究学習の場だからです。

 

そんなこんなで始まったアートプロジェクト。

 

「りんごを描こう」

「麺や大仙寺 新作メニュー作り」

 

この二つに取り組んでいきます。これは尊敬する図工教師である、奈良女子大学附属小学校の服部先生の実践を元に少しアレンジさせていただきました。

 

 

駄菓子屋だいせんじゃー!!子どもと一緒に縁日を作ったよ。

6月26日(土)に寺子屋の子ども達と、縁日をしました。

 

その名も、駄菓子屋だいせんじゃーです。

 

企画、仕入れ、広報、設営、販売、会計まで全部子どもとやりました。

 

仕入れが一番盛り上がり、つまみ食いも横行しましたwww

 

こうやって、一つ一つみんなで役割分担してやってできたことが素晴らしい体験です。

 

体験から子どもは学ぶ。

 

そのことを切に感じる時間になりました。

一緒にやろう 〜一緒につくる、育ちの場〜

6月5日(土)に開催された青年海外協力隊OB会のイベントでお話をさせていただく機会をいただきました。

 

いただいたお題は、アジアの教育事情でした。

 

とはいえ、僕はもう帰国して10年以上も経っているので、協力隊で学んだ事、生かしている事を話すことにしました。

 

「一緒にやろう 〜一緒につくる、育ちの場〜」がボクの発表のタイトルです。

 

自分を振り返る良い時間になりました。自分の原点を忘れないように文字に残しておこうと思います。

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今から皆さんに、「一緒にやろう」というテーマでお話をさせていただきます。これは、ぼくを今に導いてくれた、ばあちゃんの言葉です。

 

ここで皆さんと出会えたのも、世界がつながっているからです。そして、こうしてつながってしまったからです。皆さんと、仲間になれたらいいなって思います。

 

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堤真人と言います。

 

ボクは、今、三重県の山間のまち、伊賀というところで、お坊さんをしながら

、生まれて初めて小さな学校、寺子屋を運営しています。

 

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寺子屋には、小学校1年生から中学3年生までの子どもたち40名ぐらいが来ています。ここでは、どんな子どもも自分らしくいれることを大事にしています。

 

子どもは一人一人、学び方も違えば、学ぶペースも、興味・関心も違います。

 

違って当たり前です。でも、集団の中では違うことが大事にされないことだってあります。

 

ボクは、一人一人がユニークであることを大事にしたいし、されたいって思っています。

苦手なことは、教え合えばいいって思っています。

 

でも、バラバラにはなりたくないから、みんなで一緒にすることも大切にしています。みんなで駄菓子屋さんをしたり、本を作ったり、そんなことをしています。

 

ぼちぼちと充実した日々です。

 

でも、最初からこんなことを考えていたわけでも、していたわけでもありません。そんな話をしたいと思います。

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ボクは38年前に伊賀に生まれました。

 

伊賀のお寺でした。ボクはじいちゃんやばあちゃんや檀家さんに可愛がられて、伸び伸びと育ちました。野球が大好きな少年で、気づけば毎日野球をする野球少年になっていました。

 

少年野球団にどっぷり浸かり、夢はプロ野球

 

そんな少年時代でした。でも、6年生ぐらいから雲行きが怪しくなりました。母が教育ママと化したのです。ぼくの野球の日々は無機質な塾の日々に変わりました。家に帰っても、いつも勉強ばかりです。

 

「いい学校に入るのよ。いい大学に行くのよ。」

 

大事な野球の試合にも行かせてもらえず、ただただ偏差値を上げるために勉強をしていました。お正月だって塾の合宿です。

 

そして、その甲斐もあって進学校と呼ばれる中学に合格しました。喜んでいたのは母だけでした。ボクはやっと終わるという気持ちだけでした。

 

そんな気持ちで入った学校です。当然レベルについていけず、成績も悪いし、気力もありません。その怒りはいつしか親にぶつけられるようになりました。

 

そうしないと自分を保てなかったのでしょう。たくさん反抗しました。

 

ボクはどんどん自信をなくし、どんどん嫌なやつになっていきました。父は大阪の勤務先に朝早く出て、夜遅く帰ってくる生活でなかなか話す機会もありませんでした。

 

でも、ボクには心の支えになってくれる人がいました。

 

それは昔からの伊賀の友人と、ばあちゃんです。

f:id:iga-daisenji:20210612090134j:plainばあちゃんは、いつも味方になってくれました。いつも励ましてくれました。ばあちゃんはお坊さんだったけど、生花教室や習字教室、子供会とかいろんなことをしているパワフルな人でした。スリランカで幼稚園を建てる活動もしていました。そんなばあちゃんがよく言ってた言葉があります。

 

「たくさん遊びなさい」

 

「一人でやるんじゃないよ、一緒にやるんだよ。」

 

何度もこの言葉を使っていました。それは、仲間と共に歩んでいるばあちゃんだから出てくる言葉だったんでしょう。

 

ボクはそんなことも知らず、この言葉だけを覚え実践するようになっていました。

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高校も大学も、遊びがいつも優先でした。だって、ばあちゃんの教えだからです。でも、流石に遊び疲れ、「このままでいいんだろうか」

 

そんな不安を持つようになりました。大学生の頃だったと思います。

 

そんな時にテレビ画面に映ったのが、9.11のテロの映像です。

ja.wikipedia.org

 

ボクは、この映画のような光景にびっくりしてしまいました。いったい世界で何が起きているんだろう。この時初めてボクは、学びたいという気持ちに出会った気がします。

 

受験勉強が学びだと思っていました。でも、受験勉強は合格と同時に全て抜けてしまっていました。

 

この光景の背景なんて全然分かりませんでした。

 

勉強ってなんでしょうか?受験を勝ち抜くためだけのものでしょうか?全然違います。勉強は物事を深く捉えるために自ら学ぶことです。僕は初めて、学ぶことに向き合いました。

 

そんな時に出会った本があります。辻信一さんが書かれた『スローイズビューテュフル』です。大学の本屋さんでした。

ここには、貧困や環境問題の原因は先進国で暮らすボクたちの生活に大きな原因があると書かれていました。

 

例えば、地球温暖化が進んだのは何故でしょうか?私たちの暮らしとは無関係でしょうか?世界には豊富な食料があるのに、平等に分けられていないのは何故でしょうか?

 

原因を知っていくうちに、ボクは苦しくなりました。自分たちだけ、こんなに恵まれていていいのかって。今思うと、純粋だったなぁって思います。

 

当時付き合っていた彼女の誕生日に花火大会に行きました。

 

「この綺麗な花火大会の向こうには、苦しんでいる子どもたちがいるんだ。だから、ボクはこんな綺麗な花火は見れない。」

 

案の定、ふられました。それぐらい、世界の問題を考えようとしていたのでしょう。いつの間にか、問題を生きるようになっていたんですね。

 

たくさん本を読みました。大学院に行って本格的に学びました。でも、どこにも解決策も書いていませんでした。それどころか、問題は深刻になっているような気がしました。

 

そんな時に、恩師に「頭でっかちになってるよ。問題を生きるのではなく、今を生きなさい」と言われました。なるほどって思いました。汗をかこうって思いました。

 

電車に乗っていると、こんな広告がありました。

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もう迷いはありませんでした。青年海外協力隊に参加しようと即決しました。

 

すぐに協力隊の試験を受けました。

 

合格発表の1週間前にボクは友人とフィリピンにいました。食あたりをして旅行期間ずっと、ベッドの上でした。「もう二度と行きたくない」そう言って帰ってきたことを覚えています。

 

そして合格発表。派遣国には「フィリピン」と書かれていました・・・

 

こんなことがあっていいんだろうか・・・運命を感じる。そうして、2007年3月にフィリピンに旅立ちました。

 

ボクの任地は、フィリピン中部のボホール島という珊瑚礁に囲まれた美しい田舎の島でした。フィリピンのカオスなイメージとはかけ離れたのどかな島です。

 

自宅近くの海はこんな感じでした。配属先の島の教育委員会は海の上の建物で、窓を開けるとエメラルドグリーンです。

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あー綺麗

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観光名所で、手のひらサイズのお猿さんもいます。めちゃ可愛い。

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島はとても長閑でした。急な雨にもバナナの葉っぱで解消します。

 

これ、ボクがしたら全身びしょびしょになりました。

 

ボクの仕事はというと、SBTPというJICAプロジェクトに関する隊員でした。先生の授業力を向上させるのが目的の、教員研修を企画するというものです。

 

だから、ボクは小学校教諭という職種で行きましたが、学校配属ではなく、教育委員会配属でした。今は、こういうの多いのかな。

 

教育委員会配属で、教師よりも立場が上の人たちと仕事をするので、全ての先生がボクのことをSir.Tsutsumiと言いました。24歳にして、なんだか偉くなった気がしました。

 

早速、ボクは島の小学校の授業を見に行きました。

 

いいところ探しではなく、粗探しをしに言っていました。先生の黒板の使い方が悪い、教材をなぜ作らない、子どもを大事にしていないとか、そんなことばっかり記録していました。その記録をもとに、ボクは教員研修をプログラムしました。

 

面積は、こうやって教えるんだよ。こういう教材を手作りでできるよ。もっと頑張ってよって、そんなことを話していた気がします。

 

でも、この教員研修後、島の先生たちの目がとてもよそよそしくなりました。学校へ行っても教室に入れてくれないこともありました。

 

研修をしても何も変わってはいませんでした。

 

なんでもっと先生たちは頑張らないんだ。

 

ボクはイライラするようになっていました。

 

現実逃避するかのように、首都マニラに行って遊んだり、近くの島の隊員と遊んだりして、愚痴ばっかいっていました。もう赴任して半年が経っていました。

 

そんな時に島の男の先生に言われたことがあります。

 

「勝手に日本からやってきて、うちらの言葉も文化も大事にしてないのに、偉そうにすんじゃねー!!」

 

全然、島の言葉が分からなかったのに、この時だけははっきり分かった気がします。

 

頭をハンマーで殴られたような衝撃がありました。ボクが気づいていたことを言われたからです。自分が嫌われていること、なぜ嫌われているかだって実は知っていたのです。

 

ボクは支援者は、被支援者を支えるものだと思っていました。でも、それは全然違いました。

 

いつも、もちつ持たれつなんです。ボクがボホールで生活できていたのは、それを支えてくれる人がいたからです。そこに生きる子どもがいて、先生がいたからです。何もボクがすごいわけじゃない。お互いにギブしあい、テイクしあえばいいだけの話なんです。

 

ボクは誰よりも差別の意識を持っていたのかも知れません。日本の方が優れているぜって。

そんなやつを誰が受け入れてくれるでしょうか。そこからボクは変わりました。

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こんなふうにwww

 

思えば、協力隊の面接で、「任地の人とどうやって仲良くなりますか?」という質問の際に、「酒とダンスです。」と真顔で答え、ひんしゅくをかったことがありました。

 

それでも合格しました。つまり、酒とダンスが認められたんだって思って、それを実行しました。失敗したらJICAのせいですww

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本当にダンスww

 

島の言葉を話、島のモノを食べ、現地で暮らす。それをモットーにしていました。

 

そんなことをしているうちに、言葉もかなり覚え、どうもあの日本人めっちゃおもろいやつやだと噂が立つようになりました。

 

すると、学校の先生たちも変わっていくのが分かりました。心を開いてくれるようになりました。

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真人、授業をしてもらってもいい?

真人、これってどうやって教える?

真人、遊びに行こうよ。

真人、金かして。

 

すっかり現地に溶け込むことができました。帰国するまで日本人とは会わない。いつも任地にいる。全て任地。そう言い聞かせていました。

 

いつの間にか、フィリピンの人にフィリピン人と間違えられるようになっていました。

 

あれだけやりたかった活動も軌道に乗り始めました。協力してくれる人がたくさんいたからです。

 

「いろんな理由で学校に行けない子がいるから、土日に補習をしたいな。」

 

ボソッというと学校の先生が協力してくれました。

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いつの間にか、時間のある子どもたちが集まるようになりました。

 

日本の隊員とお祭りをしました。

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たくさん集まってくれました。大盛り上がりでした。

 

「真人、うちの施設を手伝ってよ。」

 

親のいないこどもたちとたくさん遊びました。

 

いつの間にか、島の先生たちは戦友になっていました。たくさん語り、たくさん笑い、たくさん喧嘩しました。

 

これって、ボクがすごいのでしょうか?

 

全然違いますね。ボクを輪に入れてくれた人達がいたから、そして、学校に通う子どもたちがいたからです。いや、その島の暮らしがあったからです。

 

ボクは、何も残せなかったし、力不足だった。でも、ボクの中から、自分がなんとかするとか、支援するという考えはなくなり、いつの間にか、支え支えられものだということを感じていました。

 

ばあちゃんが言っていた「一人でやるんじゃないよ。一緒にやるんだよ。」という言葉が、分かった気がします。おかげさまで二年間無事活動することができました。

 

2009年3月28日に帰国したボクは、4月からすぐに小学校の現場でした。5年生の担任でした。

 

慌ただしいまま、振り返ることもなく、怒涛の毎日です。

 

協力隊の2年間はボクに自信を取り戻させていました。それは過信にもなっていました。

 

同僚とぶつかることも多く、心身が乱れていきました。

 

たくさん研修会に行き学びまくっていました。もっと授業を上手くならないとって。

 

「俺はこんなに学んでいるのに、教科書だけを教えている先生なんてダメだ!」そうやって思う自分もいました。

 

そんな時にある先輩の先生に、「あなたの授業はうまいけど、いい授業じゃない。」

 

ボクははっとしました。気づいていたのです。流れるような授業で、学級も統率が取れている。でも、子どもと心で繋がっていないことを。

 

その時に思い出したのが、フィリピンの子どもたちでした。ただ、そこに集まり、みんなで一緒に授業を作っていた日々のことを。

 

ボクは、こういう笑顔が見たくて先生してんだったなって。

 

そこからは教室の風景だって変わりました。いつの間にか、誰が先生か分からないようなメダカの学校のようになっていきました。

 

子どもたちは温かく繋がり、学び合う仲間になっていました。

 

こんなことがありました。

 

ある子は、歌が大好きでした。ある子は太鼓の達人が大好きでした。二人で、ドラム&ボーカルグループを結成して、休み時間に遊んでいました。その子には、いつかコンサートを開きたいという夢がありました。みんなで相談して、開くことにしました。広報はクラスの友達がしています。

 

そうして迎えたライブ当日。一階の踊り場には200人ぐらいの観客がいます。

 

ファンだってできました。初めてのサインだってやりました。

 

二人も、それを支えたクラスの子もとってもいい顔です。

 

自分のやりたいこと、得意なことを失敗を恐れずチャレンジすることの大切さを、子どもたちに教えてもらいました。

 

育つのは子ども。子どもは自ら育っていきます。

 

これはボクがすごい教師だからでしょうか?全然違います。子ども達が育とうとしているからです。ボクが育てたわけではないのです。子どもの力です。

 

いつも主人公は当事者なんです。これは協力隊の時と同じ。こちらが何かしよう、変えようとすると、無理が生じる。

 

見ていないようで見てる大人の優しい眼差し、子どもが安心して過ごせる場があること。大人ができることはそれぐらいかも知れません。できるだけ、余計なことをしないのが良いのかもしれません。

 

教育に答えはありません。ボクが正しいわけでもないです。それぞれができることをやるしかないと思います。

 

でも、これだけは真実。

 

「育つのは子ども」であること。

 

子どもが育つということを信じることを真ん中に置きたいと思うのです。ボクは、そんなことを胸に、生まれ育った伊賀に戻りました。

 

ボクには帰ったらやりたいことがありました。それは小さな学校を作ること。

 

子ども達が自分らしく、共に学び、共に笑うそんな場所。全ての子ども達が、幸せな子ども時代を過ごせる場所。

 

かつて、ばあちゃんがやっていたような寺子屋を。

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みんなで一緒にやろうが合言葉。

 

時代が変わっても、ばあちゃんがしていたことと大して変わらない。

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そこに子ども達が集い、共に育っていく。

 

子どもは自然と育っていく。育ちやすい環境を大人が整えてあげたらいい。そう思うのです。

 

ボクの力なんてしれています。だから、こうやって出会えた人達と一緒に、子どもが育つ場を一緒に作っていきたいと思います。

 

ありがとうございました。

 

追記①

ばあちゃんの大切さに気づいたのは、亡くなった後でした。今、会いたいって思います。会えないけど、ずっと見守ってくれているそんな気がします。

 

追記②

教育ママと化した母ですが、あれからいろんな反省があったのか、大学に通い、自分がかつてしてしまったような失敗を起こさないように、女性支援のNPOで活躍しています。

 

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大人の背中vol.7 〜NGO One Love ルダジングワ真美さん〜

中学生の寺子屋では、子どもたちの世界の可能性をどんどん広がることを期待して、日本や世界で活躍する大人の方をゲストにお招きし、学ぶ時間があります。それが大人の背中です。

 

今回のゲストは、ルワンダで義足を作り無償提供を行うNGOワンラブのルダジングワ真美さんに来ていただきました。

 

ルワンダには1994年に起きた大虐殺で、多くの人が亡くなり、多くの人が手足を失うという悲しい過去があります。

 

大虐殺後、旦那さんのガテラさんと共に、義足作りをコツコツと続けている方です。その歩みは記事にもまとめられてます。

www.yomiuri.co.jp

真美さんとの出会いは偶然でした。当時、横浜で5年生の担任をしていたぼくは、英語の授業に留学生を招待しようと考えていました。

 

たまたま、留学生センターで紹介していただいた青年が、エメリーさんというルワンダの青年でした。

 

留学の目的は、義足作り。

 

どういうこと?って思いました。エメリーさんと関わっていく中で、彼を日本の派遣したNGO団体ワンラブを知り、真美さんとも出会いました。

 

その年は、エメリーさんとの交流をきっかけにルワンダについて学ぶ一年間でした。最後には、ガテラさんも真美さんも学校に来てくれました。懐かしいです。

 

そのご縁から、その後も繋がらせていただいています。

 

真美さんの飾らない人柄や、地に足のついた活動を寺子屋の子ども達に紹介したかったのです。そこで今回お願いすると快諾でした。

 

僕自身も青年海外協力隊に参加していたので、国際協力の世界で生きる人に出会うことがたくさんありました。

 

いろんな人がいました。僕が惹かれるのは、大きな国際協力機関でバリバリ頑張る人よりも、お金はないけどその地に根ざし苦楽と共に生きる草の根の方達でした。

 

真美さんは、今の時代では少なくなった草の根の活動を長くしてきた方です。

 

子ども達には、視野を広く持ってほしいと思っています。

 

視野を広く持つとは、世界に出ないとダメだということではありません。

 

自分とは違う価値観、違う景色を見て生きる人に出会い、自分自身の価値観が揺さぶられ広がっていくということだと思っています。

 

人はちょっとしたきっかけで大きく人生が動くこと、地道に打ち込むことを続ければ世界が開いていくことを感じて欲しいのです。

 

今回は真美さんの話を聞く前に、真美さんがテレビに出ていた番組を見て予習しました。

 

そこで出た子ども達の質問は、

 

義足を作るときに、どんなことを思っていますか?

義足を渡すときの気持ち。

簡単な日常会話を教えてください。

一つの義足はいくらですか?

どれだけの人が関わりますか?

お父さんに会えるとしたら何を伝えたいですか?

The日本料理というと何が食べたいですか?

ルワンダに初めて行ったとき、どんな気持ちですか?

義足・義手を作るのに、そうぜい何人の人で作っていますか?

ルワンダで義足・義手を作っている時、ルワンダの人たちはどんな目でみていましたか?

 

当日は保護者の方も参加してくれました。

 

初めての海外とのオンライン。まず、それにみんなドキドキしていました。

  

子ども達は、じっくりじっくり真美さんの話を聞いていました。何を感じたのでしょうか。

 

人によって感じ方は違います。

 

でも何かのカケラが子ども達の心の中に残れば良いと思っています。

 

そのカケラがみんなの人生を後押しすることがあるかもしれません。

 

大人の背中では、いろんな大人に出会います。そういった出会いの中から、刺激を受け成長してほしいと思っています。

 

育つのは子ども

 

僕ら大人はそれを後押しする出会いや環境を整えることが仕事だと思うのです。

 

真美さん、みんなありがとう。

www.onelove-project.info

 

 

死の体験旅行®︎を開催しました

5月26日(土)に死の体験旅行ワークショップを開催しました。

 

物語の主人公の話に合わせて、自分の大切なものを死に近づくにつれて、少しずつ取捨選択していくというワークショップです。

 

元々は、欧米のホスピスで医療者が患者の気持ちを理解するために開発されました。

 

それを日本の僧侶、浦上哲也さんが医師などと共に、一般向けに開発したものです。

 

浦上さんが取材を受けた時の動画があります。こちらでワークショップの概要がわかると思います。

 

youtu.be

このワークショップですが、現在は全国の僧侶でトレーニングを受けたものだけが扱えることになっています。ボクも去年トレーニングを受けました。

 

ボクがこのワークショップを自分でも扱いたいと思ったのは、参加した時の衝撃でした。

 

数年前、身近な人の死などがあり、死について考えることが多い時期があります。その時に、池袋のお寺で行われていたワークショップに参加しました。

 

初めて死についてオープンに考え、分かち合える場でした。ボクにとっては、自分の家族がとにかく大切な存在であることに気付かされました。

 

ワークショップ後帰宅し、家族に日頃の感謝をしっかりと伝えようと思えました。

 

いつも当たり前にある大切なことは永遠ではないこと。いつか離れないといけない日があること。そんなことを感じました。確かに、だからっていって生き方も生活も変わったことはないですけど、こんな大切なことが身近にあることは自分に勇気をくれています。

 

このワークショップを広げたい。そう思い伊賀の地でも開催することにしました。

 

今回は定員は6名。告知から一日ですぐに埋まりました。最終的には7名で行いました。

 

ドキドキの中でしたが、とても温かく力強い時間になりました。

 

一人一人が自分としっかり向き合っている姿をしっかりと感じました。

 

みんなで感じたことを分かち合う時間も、受けとめ合い、認め合う素敵な時間になりました。

 

「ワークショップが深い瞑想のような時間に感じました。」

 

そうおっしゃる参加者の方もいました。

 

こうやって、お寺が今生きている人の人生を後押しできるような時間になれば良いなと思います。

 

次回は、6月26日(土)19:00からです。伊賀は大阪からも奈良からも近いので、いろんな人が参加してくれるといいな。

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子ども駄菓子屋プロジェクト

子ども達と駄菓子屋プロジェクト始めました。

 

仕入れから子ども達と相談し、企画、広報、運営まで全て、子ども達でやります。

 

大人が子どもを楽しませようとする気持ちは素敵なことです。

 

子ども達の周りには、子ども達を楽しませるものに溢れています。ゲーム、アニメ、テレビ、YouTubeなどなど。十分なコンテンツがあります。

 

それも楽しいものですが、自分たちで創り出す面白さも大事にしてほしい。楽しまされてばかりじゃなくて、次は楽しませる方に回ってほしいと思うのです。

 

社会は分かち合うことで、平和になると思っています。

 

今回の駄菓子屋もそうです。自分たちが楽しむことを、伊賀の子ども達みんなで分かち合う時間。

 

そういう経験が、子どもの自信につながり、社会への信頼へのつながるはずです。

 

子どもには力がある。

 

あーー楽しみだ〜!!

学びには終わりがないということ

学びのゴールはいつでしょうか?

 

高校受験、大学受験、就職試験なのでしょうか?

 

就職したら、もう学びは終わりなのでしょうか?

 

それは、どれも違います。試験というのは、生きて行く上での手段であってゴールではありません。学びというと、日本の教育においては、すぐに試験をイメージしてしまいます。

 

しかし、学びはそんな単純なものではありません。

 

美味しい料理を作るために、どうやって作ろうかと考えることも学びですし、喧嘩した友人と仲直りをする方法を考えることだって学びです。

 

ボク達の周りには無限の学びが広がっているわけです。しかも、答えのないことばかりです。

 

ボクには娘と息子がいますが、子育てだって正解はありません。

 

寺子屋の子ども達との日々にも正解はありません。

 

これをしたら、こうなるというような単純なものではないからです。

 

確かにテストの点数を取るには、効率的な方法があります。なぜなら、答えがある学びだからです。

 

答えがある学び、そして答えのない学び。両方あることをまず抑えておく必要があるでしょう。あまりに、試験に偏重し過ぎているのが戦後の日本の教育の特徴です。しかも、さらに加速されつつあります。

 

何も試験は必要ないといっているわけではありません。試験は手段なので、攻略したらよいです。しかし、それがゴールではないことを忘れてはいけません。

 

今、自分が満足して生きているのか。ウエルビーイング(幸福)を真ん中にして生活できることを考えると良いと思うのです。

 

満足感、幸福感は人によって違います。人はそれぞれ違う山を登ればいい。登れない時は登らず待っていればいい。登れなくて戻ってきた人がきっと安心するでしょう。

 

一人一人が、それぞれできる形で社会と関わっていく、余裕がある人が分かち合っていく。人は一人では生きていけません。

 

お互いが寄りかかりながら、共に学びながら成長していく。そんな場が、寺子屋です。

 

一人一人が大人になって幸せになってほしい。幸せは比べることはできません。ただ、人と分かち合うことを知らない人が、本当の意味で幸せだとは思えないのです。

 

分かち合うことは、ボク達大人が示すことだって思うのです。

 

小さなことです。

 

目の前に困っている人がいる、しかも自分には余裕がある。できる範囲で分かち合いたいです。

 

次回の大人の背中は、ルワンダで義足作りのNGOをしているルダジングワ真美さんです。

 

分かち合うことの大切さ、そして難しさを実践している方です。

 

この機会は寺子屋の保護者の方とも分かち合い、共に学ぶ時間にしていきます。