学びのゴールはいつでしょうか?
高校受験、大学受験、就職試験なのでしょうか?
就職したら、もう学びは終わりなのでしょうか?
それは、どれも違います。試験というのは、生きて行く上での手段であってゴールではありません。学びというと、日本の教育においては、すぐに試験をイメージしてしまいます。
しかし、学びはそんな単純なものではありません。
美味しい料理を作るために、どうやって作ろうかと考えることも学びですし、喧嘩した友人と仲直りをする方法を考えることだって学びです。
ボク達の周りには無限の学びが広がっているわけです。しかも、答えのないことばかりです。
ボクには娘と息子がいますが、子育てだって正解はありません。
寺子屋の子ども達との日々にも正解はありません。
これをしたら、こうなるというような単純なものではないからです。
確かにテストの点数を取るには、効率的な方法があります。なぜなら、答えがある学びだからです。
答えがある学び、そして答えのない学び。両方あることをまず抑えておく必要があるでしょう。あまりに、試験に偏重し過ぎているのが戦後の日本の教育の特徴です。しかも、さらに加速されつつあります。
何も試験は必要ないといっているわけではありません。試験は手段なので、攻略したらよいです。しかし、それがゴールではないことを忘れてはいけません。
今、自分が満足して生きているのか。ウエルビーイング(幸福)を真ん中にして生活できることを考えると良いと思うのです。
満足感、幸福感は人によって違います。人はそれぞれ違う山を登ればいい。登れない時は登らず待っていればいい。登れなくて戻ってきた人がきっと安心するでしょう。
一人一人が、それぞれできる形で社会と関わっていく、余裕がある人が分かち合っていく。人は一人では生きていけません。
お互いが寄りかかりながら、共に学びながら成長していく。そんな場が、寺子屋です。
一人一人が大人になって幸せになってほしい。幸せは比べることはできません。ただ、人と分かち合うことを知らない人が、本当の意味で幸せだとは思えないのです。
分かち合うことは、ボク達大人が示すことだって思うのです。
小さなことです。
目の前に困っている人がいる、しかも自分には余裕がある。できる範囲で分かち合いたいです。
次回の大人の背中は、ルワンダで義足作りのNGOをしているルダジングワ真美さんです。
分かち合うことの大切さ、そして難しさを実践している方です。
この機会は寺子屋の保護者の方とも分かち合い、共に学ぶ時間にしていきます。