【個人事業主になって2年。人生のワクワクが広がったという話】
寺子屋をオープンして早2年が経ちました。3人からスタートした寺子屋は50人に増えました。
これは僕がすごいのでしょうか?全然、違います。ここを選んでくれる子がいるからです。場を育てているのは、子どもであり、親であり、ゲストで来てくれる大人がいるからです。
公立小学校教員の待遇等を手放すことには迷いもありました。
駆け抜けた教員時代。いろんな経験をさせてもらいました。
しかし、ラスト2年ぐらいは徐々に退職に向かっていたと今では思います。私立小学校の試験を受けたり、国立小学校に願書を出したりしたこともありました。
なぜか?
学校でも横浜市でも中心的な役割を担うようになり、自分の言葉で話せないことが増えてきたことが、あんなに楽しかった仕事をつまらなくさせていました。
退職2年前の研究授業の後、大勢の外部参観者の中からこんな言葉がありました。
一人は前任校でお世話になった退職した校長先生でした。僕を物凄く可愛がってくれた方です。
「堤さん、研究主任としての授業をしなければいけないよ。もっと分かりやすくモデルになるようなものを」
もう一人は他の学校の先生でした。
「こんなのは授業じゃない。授業はもっと熱いものだ。」
この時、僕の研究授業はリーディングワークショップという一番大切にしていた授業です。
自分で好きな本を選んで、没頭して読み続ける授業です。
授業開始から、授業終わりまで没頭して読み続ける姿を認めてくれる参観者もいれば、教えない授業は授業じゃないという参観者もいます。
今思っても、うまい授業ではないけど、いい授業だと思います。
でも、当時の僕は立場を考えて授業をしないといけないという強迫観念をもつようになっていました。
当時の校長からも、枠の中でやりなさい、あなたがやりたいことをするのではないと何度も何度も言われていました。
「言われたとおりしよう。」
僕の教員、最終年度はまさにそれでした。
春先から、学習指導要領改訂に伴う学校カリキュラムの編集を研究主任として取り組みました。はっきりいってくそ仕事です。ひたすら指導要領の言葉を学校の言葉に置き換えていく。
他の職員にこんなくそ仕事をさせたくないので、夜遅くまで一人でしていました。校長からは、自分が昔作った学校カリキュラムを渡されました。
つまり、同じことをしろということです。
プリントにして200枚近くありました。
本当に無駄な仕事だと思いましたし、昔のやり方を求めてくることに憤りを感じていました。
学年は相方が、若い先生だったので一緒にやりながら、保護者対応も一人ぼっちにならないように守りながらやっていました。
だんだん、なぜ教師をしているのか分からなくなっていました。
そんな時に通っていたのが、青山学院大学のワークショップデザイナーコースです。
そこには100名近い、企業の人やフリーランスの人が同級生となりました。世の中はこんなにいろんな仕事があって、それぞれの生き方があることにドキドキしました。
末っ子キャラの僕は、可愛がってもらいました。
あるワークショップをみんなで作った後、フィードバックの時に他の受講生にこんなことを言ってもらいました。
「真人は先生っぽさが強い。引っ張ろうとし過ぎている。」
僕は引っ張る系の先生ではありませんでした。同僚でもみんなそう思っていたと思います。声も大きくありません。でも気づかないうちに、ステレオタイプの学校文化が身体中を蝕んでいたんだと思います。
このコースには、たくさんのフリーランスの人も参加していました。仲良くなっていくうちに、僕も自分で何かやりたい、意思決定権がある仕事がしたいと思うようになりました。
学校の中で意思決定権をもつには校長になる、委員会の上層部になることが必要です。もちろん小さな意思決定権は教員にもあります。
でも、何をするにも校長の耳にいれる必要があります。
こんなことをやりたいと言っても、ほとんどができません。
「それは生活科の◯番ですか?」
こんなことを聞かれてだいたいが没です。そのうち提案すらしたくなります。
だんだん心は学校から離れていきました。
夏休みには退職を決めていました。でも、前期が終わる10月までは伝えずにおこうと思いました。
9月に研究授業がありました。その日も外部参観者がたくさん来ていました。僕は研究主任らしい授業をすることをテーマにしていました。
単元は、おもちゃカンパニー。よくある生活科のものですね。オーソドックスなやり方で、丁寧に授業設計をしました。
当日は学習指導要領を書いているような先生が講師に来ていました。大絶賛でした。校長先生も満足気でした。
その姿を見て、退職を100%決めました。
学校には子ども達との夢があるけど、教員としての今後のキャリアにワクワクできないと身体が感じたからです。
キャリアは人それぞれなので、否定していませんが、僕には無理だと思いました。
この授業に僕という個性はどこにも無かったからです。言われたことを見栄えのいいようにした授業。
それなりに技術があるので、とても子どもも盛り上がる設計にはなっているけど、これがやりたいわけじゃないと思いました。
「先生の手のひらの上で、あたかも自分達でやっているような授業」
こんなのはやらせだと思いました。
退職を決めた残り半年は、年休を消化すること、同僚達と草野球に没頭すること、子ども達と目一杯楽しむことだけを真ん中に置きました。
今思えば大人気ないですが、僕の静かな反抗でした。
あんなに楽しかった公立小学校の教員の仕事が、どんどんつまらなくなったのは、自分が学校化したからだったんだと思います。
退職して、自分の世界は一気に広がりました。今まで会ったこともないような人にも出会い価値観も変わってきました。
自分の隠されていた可能性にも出会いました。
大好きな教育という仕事も、寺子屋という形でプレイヤーとして楽しめています。子ども達が成長を実感できる良い寺子屋だと思います。まず、楽しい!
学校教育にも関わっています。今年の夏はJICAの職員として3つの教員研修を協力して行いました。
一人一人の先生達の可能性を大事にしてほしい。そんなメッセージを込めています。一人一人の先生は個性的で素晴らしい。そう信じています。
教師になると永久就職というイメージがありますが、それは思い込みです。大切なことは、自分らしく楽しく真剣にできるところに身を置くことです。
人生は短い。
やりたいと思った時がやりごろです。
僕が教員生活でやってきたことは何一つ無駄にはなっていません。全力でやったからこそ身に付けたスキルも多いです。
だから自信をもって飛び出していいと思います。
同時期に横浜市を退職した同期と後輩がいます。
一人はオルタナティブな道を選び、自分のワクワクすることを確実に形にしている。
一人はスナフキンとなり海外に旅立ちました。
「教師を必要とする企業なんてないよ」とか転職をしたことも無い先生がよく言います。
転職ってただ仕事を変えることを指しません。自分らしく伸び伸び生きることができる場に転がることです。
僕は弱い人間で、出世欲が強かったので、管理職や委員会に迎合していってバランスを崩しました。
そうではない先生もたくさんいます。
一人一人の先生を全力で応援することはこれからも続けます。
管理職の先生、ミドルの先生、どうか若い人のやりたいを、計画が甘いとかで潰さないでほしい。自分がやってきたことを正義にしないでほしい。
そう思っています。
時代は若い人に譲っていかないといけない。
最後に、あんなに手放すのをびびった教師の待遇ですが、もうすぐで追いつきそうです。個人事業主なので、変動はありますが、時間対価ではないので、可能性は無限にあります。
個人事業主、楽しいです!