人をけなすわけでなく、素朴な疑問
心を穏やかに生きる方法を説くお坊さんはたくさんいる。
その中には、他の仕事はしていなくて、専業僧侶の方々もいる。
教員を退職をして半年、僕はお寺にだけいた。
特にすることもなく、掃除をして、本を読んで、時たまかかってくる悩み相談に答える。
その時の僕の心は整いまくっていたのだ。学校の中の競争も無ければ、夜遅くにかかってくる保護者からの電話も無ければ、校長の小言だって無い。
ストレスになる要因が圧倒的に少なくなっていたのだ。
その立場からだったら、心を整えるには、呼吸が大事ですとか、傾聴をする時はこれこれこうですとか、心に波が立った時は原因を探るとか、今ここの気持ちを受け取るとか、簡単にできてしまった。
誰が言ったか分からないんだけど、座禅はお寺でするのが一番簡単、娑婆でするのが難しいと先輩僧侶に聞いたことがある。
僕はこの先輩僧侶に共感する。
世の中にはコミュニケーション、傾聴、スピリチュアルなど心を穏やかにする方法は溢れている。でも、実際の場面ではそんな技術が役に立たないほどとっさに僕たちは反応してしまうのではないか。
心を穏やかにする方法を語るお坊さんや、ブッダでさえストレスフルな会社で働いてもらったら、反応しまくるんじゃないかとも思うのだ。
落ち着いた場所で、心を説かれても全く信頼できないのは、僕の性格が悪いからなのだろうか。いや、そうだって分かっているんだけど、腑に落ちない。
娑婆の世界で、煩悩にまみれて、嫉妬心剥き出しで、ひーひー言いながら生きていることに僕は魅力を感じるのだ。
こんな自分でも、一人ぼっちにはならない。その安心感が、僕の信仰心だと思っている。
心を穏やかにと語る仏教本を読んで、余計に心がささくれだったのであった。
「読まなきゃいいのに」
妻の言うことが正論だと納得した節分前夜であった。