寺子屋 大仙寺の日々是好日

三重県伊賀にあるお寺。大仙寺の寺子屋ブログです。探究型の寺子屋です。HP → https://www.iga-daisenji.org/

子どものことを知ろうとすること

「子どものことはよく分からない。」

いつも心に置いていることです。

あの子は、こうでああでってつい思ってしまうのが、僕ら教師の癖。

「そんなに簡単にわかられてたまるか。」

そんな子どもの声が聞こえてくる気がしている。大人が子どものことを分かるというのは傲慢だ。心の中なんて僕たちには見えない。

だからこそ、分からないからこそ、よく観る、いや、ぼーっと観ることが大事だと思っている。

その観察から、こう感じているのかなと予測をして、自分も即興的に関わっていく。即興は見たこと聞いたことへのリアクションだ。

その時に、相手を変えようとして関わるとだいたい痛い目に合う。だから、即興はあくまで即興、自分のモットーが即興に現れる。

モットーを作るのは、自分の経験則だ。経験則を豊かにするには、価値観の違う場に飛び込むしかない。僕は人の関わりが苦手な方だったから、本や映画から多くを学んだ。

今は頑張って違う価値観の人の輪に入っていくことを意識している。結構、面白い。自分が更新されていくのが分かる。

同時にやっぱり疲れる。自分のメンテナンス、人と関わらない時間もほしいと感じる。

今日は三重大学の学生が、卒業研究の一環で来てくれた。世代も違うみなさんから、また僕は経験知をいただいた。

大学生と子ども達は歳が近い。流行りだって理解できている。心の距離が近い。子どもには若い大人が必要だと感じる。

一方で中堅どころの僕たち世代は、ただ実践を重ね、実践の場を開いていくことが大事だと感じた。若い世代にどんどん開放していかないと。

場を開放し、いろんな人が関わるようになると価値観も変化し、僕のモットーも少しずつ変化していく。子どもの見え方も、少しずつ変わっていくだろう。

「あなたのことは分からない。だから、あなたを知ろうと思う。」

毎日、恋愛しているんだなって思う。

敬愛する石田喜美さんのブログに載せてもらっている、ある学会での子どもとの即興的な関わりについての論考。

今なお変わっていないな。

 

全国大学国語教育学会ラウンドテーブル「国語教育における即興的パフォーマンスとしての学習 」 - kimilab journal

尊敬する新聞記者は、あの人

昨年の今日だった。

細々と始めた寺子屋を追ってくれていた記者さんがいた。

インスタグラムにDMが来たんだった。

それからは、子ども達に相談。

寺子屋に取材が来るんだけど、どうする?」

ここは僕だけの場所ではないから。そう、ここは僕たちの場所。

案の定、子ども達はのりのり。僕だってのりのりだ。

この記事は、僕を取り上げてくれたんだけど、地域版には子ども達をたっぷり取り上げた記事が掲載された。

あれから一年が経った。

子ども達は成長しているし、彼ら自身も成長を実感していることだろう。

寺子屋だって気づけば70人が通い、成長している。

じゃあ、僕はどうか?

JICAに勤務が始まったり、地域紙のライターになったりと、環境は確かに変わった。

でも、自分が成長しているかどうかは怪しい。

寺子屋にしても、次の夢を描いているのに動こうともしない。現状維持に埋没している自分。

次の夢は、「子ども達が作る子ども食堂

大人が支援することもいいと思う。否定していない。

だけど、僕は自分達の場は自分達で作る方に魅力を感じる。

でも、一歩が踏み出せない。

地域を巻き込んだ子ども食堂となると、自分一人でやりきれないことが明確だから。だって、いくら子どもが主体といっても、その環境を整えることは大人の役目だからだ。

数週間前には、地域商社を立ち上げた先輩に、昨夜は地域でたこ焼きを焼く先輩に話した。

二人ともしっかり聞いてくれた。そして、面白がってくれる。

世界は僕が思っている以上に優しいのかもしれない。

仲間づくりが苦手な自分。

殻を破るのは今かもしれないと思った。

頼る先を増やす。

「人の心は他者に守ってもらうもの。」

この言葉が僕を後押ししてくれている・・・気がする。

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良いお寺の条件

「うちのお寺どうなん?」

大学時代の友人に聞かれました。彼の家のお寺さんに疑問があるようです。

これは考えさせられます。人それぞれだし、必要ないかもしれないし。

僕が思う良いお寺の条件は2つです。

社会奉仕と、明瞭会計であることです。

社会奉仕は宗教法人の義務です。宗教は人の役に立つためにあるからです。

明瞭会計であることも大事です。宗教はビジネスではありません。福祉とビジネスの間を行き来するソーシャルなものです。

でも世の中、お寺は軒並み高額だったり不明瞭な価格設定です。

なぜか?

寺の金で飯を食おうとするからです。どれだけ有り難い話をうまくしても、価格が高いお寺は僕は信頼しません。

価格といっても布施は任意です。でも、だいたいの目安があるものです。

葬儀関連でお寺に50万も60万もかかったと聞くと、耳を疑ってしまいます。これにまだ葬儀屋に支払うと100万以上、、、

葬儀屋+布施で50万ぐらいで素晴らしい葬儀ができるのに。素晴らしいとは、じっくり弔う、喪に服す儀式であることです。

良いお寺は、檀家さんへの金銭的な負担を減らすことに熱心だと個人的には思います。

その上で、お寺も綺麗にし、学び続けることが大事だと思います。

みなさんどう思いますか?

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対立と協働

最近のテーマは、対立と協働。

意見が違うのに相手に合わせるのではなく、互いの意見を伝え合う。

両者納得はできなくても、伝えきった実感の先に協働があるのではないか。

鷲田清一さんから学んだこと、国際協力で学んだこと、ワークショップで学んだこと、僧侶としての日々、積み重ねてきたことを、組み合わせている。

これが良い教育かどうかはボクには分からない。子ども達を、眺めながら、想像しながら、推測していくしかない。

子どものことは分かり得ない。他者のことは分かり得ない。でも、なんとか想像し分かろうとする営み。

これしか、ボクにはできない。

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寺子屋の暖簾

寺子屋の暖簾を新しくしました。

寺中 有希さんに描いていただいたイラストがベースです。

有希さんの一周忌には間に合わなかったけど、こうやって子ども達を迎え入れる入口ができて良かった。

我が家には有希さんの足跡がたくさんあり、毎日、手を合わせることが日課となりました。

今、寺子屋で子ども達が生き生きしているのもまた、彼女のいのちのはたらきだと信じています。

出会えて良かった。

ありがとう😊

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ぶんと通信のライターをしています

伊賀の文化人を紹介するフリーペーパー。
その名も「ぶんと通信」

公益財団法人伊賀文化都市協会が発行しています。

寺子屋に通う保護者の方から声をかけていただいて、ライターとして参加しています。

今回は、リスペクトする先輩の児島さんを取り上げさせていただきました。

通販会社で鍛えた商品開発力で、故郷伊賀をも盛り上げているナイスガイです。

駄文ですが、ぜひ読んでください!!

地域の主役は僕たち市民です。とにかく動くこと。そこからしか始まらない!!http://www.bunto.com/wp-content/uploads/2023/02/146.pdf

読まなきゃいいのにと、妻は言う

人をけなすわけでなく、素朴な疑問

心を穏やかに生きる方法を説くお坊さんはたくさんいる。
その中には、他の仕事はしていなくて、専業僧侶の方々もいる。

教員を退職をして半年、僕はお寺にだけいた。

特にすることもなく、掃除をして、本を読んで、時たまかかってくる悩み相談に答える。

その時の僕の心は整いまくっていたのだ。学校の中の競争も無ければ、夜遅くにかかってくる保護者からの電話も無ければ、校長の小言だって無い。

ストレスになる要因が圧倒的に少なくなっていたのだ。

その立場からだったら、心を整えるには、呼吸が大事ですとか、傾聴をする時はこれこれこうですとか、心に波が立った時は原因を探るとか、今ここの気持ちを受け取るとか、簡単にできてしまった。

誰が言ったか分からないんだけど、座禅はお寺でするのが一番簡単、娑婆でするのが難しいと先輩僧侶に聞いたことがある。

僕はこの先輩僧侶に共感する。

世の中にはコミュニケーション、傾聴、スピリチュアルなど心を穏やかにする方法は溢れている。でも、実際の場面ではそんな技術が役に立たないほどとっさに僕たちは反応してしまうのではないか。

心を穏やかにする方法を語るお坊さんや、ブッダでさえストレスフルな会社で働いてもらったら、反応しまくるんじゃないかとも思うのだ。

落ち着いた場所で、心を説かれても全く信頼できないのは、僕の性格が悪いからなのだろうか。いや、そうだって分かっているんだけど、腑に落ちない。

娑婆の世界で、煩悩にまみれて、嫉妬心剥き出しで、ひーひー言いながら生きていることに僕は魅力を感じるのだ。

こんな自分でも、一人ぼっちにはならない。その安心感が、僕の信仰心だと思っている。

心を穏やかにと語る仏教本を読んで、余計に心がささくれだったのであった。

「読まなきゃいいのに」

妻の言うことが正論だと納得した節分前夜であった。