寺子屋 大仙寺の日々是好日

三重県伊賀にあるお寺。大仙寺の寺子屋ブログです。探究型の寺子屋です。HP → https://www.iga-daisenji.org/

高田本山での説法

先日、高田本山で説法をさせていただきました。
その時、話したことを記録しておこうと思います。
テーマは「五戒を守ることができない自分」です。
 仏教徒には守るべき戒律があります。不殺生戒、不偸盗戒、不妄語戒、不飲酒戒、不邪淫戒の五つです。
生き物を殺してはいけない。他人のものを盗んではいけない。不純な交遊はしてはいけない。嘘をついてはいけない。お酒を飲んではいけない。
僕がとにかく守れないのは、お酒を飲んではいけないです。夏になると、プシュッとしたくなります。
この五戒を守ることができれば、心身ともに健康になるでしょうし、よりよく生きることができるでしょう。
五戒を守ることは善いことです。
そうとは分かっていても、プシュッとしてしまう僕は宗教的悪といえます。
とはいえ、よく考えてみると、社会で生きるのであれば五戒を守ることができる人はほとんどいないでしょう。
お釈迦様は、社会を捨て出家することで、悟りを得ることができました。
僕たちはお釈迦様ではないですから、同じようなことはできません。
宗教的悪を抱えながら生きていくしかない。整わない日々を送るしかない。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、五戒を守ることのできない自分と向き合いました。
仏教における善悪は相対するものではなく、善悪一如、善悪は一つのものと考えます。
親鸞聖人は、悪を生きなければいけない自分を、阿弥陀仏に委ねていくことで、悪を悪でなくすことを説いたと僕は受け取っています。
悪である自分を理解すればするほど、そんな自分であっても、一人ぼっちにならない尊さに気づきます。
ありのままの自分を見つめ、あるがままを生きようとすること、そして、それを支えていく縁に満ち溢れていることに気づく。だから力強く前に進むことができる。
阿弥陀仏に委ねるとは、僕は「どんな時も、一人ぼっちにならない」ということだと僕は信じています。
そんな、話をしました。
ものみな金色
生きとし生けるものが、幸せでありますように
 

大人の背中〜ラッパー僧侶 古溪光大〜

どんな時でも、応援したいと思う人がいることありませんか?
あれ、なんなんだろう。
たまにある。そして、そういう人に出会えた時、すごく幸せな気持ちになります。
 そんな仲間の1人が、古溪 光大君です。

www.furutanikodai.com

彼は僕と同じお坊さんです。
大学卒業後、帝人に勤務。早々に退職し、永平寺に修行に行きました。これだけ聞くと、どこを応援するのか分からないかもしれません。
彼には裏の顔があります。それはラッパーであること。永平寺に行く前に、YouTubeに新曲をリリースしていました。
YouTube始めようと思うんです。」
彼の口から聞いた時も、ポジティブフィードバックをしました。
永平寺から帰ってきた彼は、TikTokを配信し始め、若者にバズり、今では多くの人の悩みに答えています。
「人の悩みに答えている僧侶っていないですよね。そもそも、それをめんどくさがってるところもあるんじゃないですか。」
まさに核心。
そんな彼が先週末、寺子屋に遊びに来てくれました。
子どもたちと思いっきり遊び、思いっきりラップし、心を鷲掴みにしていました。ほんと、かっこよかった。
光大君はどこまでも成長をしていく感じがします。ナイスガイで、仲間がどんどん増えていくタイプ。
コメント欄に彼が出版する本や、Yahoo!ニュースやテレビ出演のURLを貼っておきます。
ぜひ、見てみてください。
すごいよ、あんたは。



 

大仙寺のコンセプト

お寺や寺子屋

人が困っていることを見つけ、人の役に立つこと。それを提供して対価を得る。ビジネスの基本。

でも、ボクはこれを目指していない。役に立つサービスは世の中に溢れ飽和状態。

役に立つではなく、意味のあることを提供するのが、お寺や寺子屋の存在意義

「あなたの中に、あるお寺」

これが大仙寺のコンセプト

あなたにとって意味のあるお寺

寺子屋は2つ目の家族」

6年生の言葉が沁みる。ボクが目指すのはこういうこと。

ただ勉強を教えるのであれば、塾で構わない。

豊かな体験や、自分の夢を形作る経験

これが柱だ。

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寺子屋の先生になれた

すっかり寺子屋の先生も板についてきた。

真人君と呼ばれることにも。

基本的に、教員時代と授業スタイルも関わり方も変わらない。

ただ、今の自分の方が良い授業をしている自覚がある。子ども理解がより進んでいる。

腕が上がったわけじゃない。

なぜだろう。

それは、明確な理由があるのだ。

評価だ。学校における評価と、寺子屋の評価は違う。

学校だと評価規準たる、成績つけるための規準を設け、子どもの学びに向かう。それだと、見えなくなるものがたくさんあるのだ。

さぼる、諦める、不貞腐れる、マイナスに映る行動は、学校では評価を落とす。

しかし、ネガティブな行動は、飛躍には必ず必要なのだ。今は、それがよくわかる。

ルーブリックもCan doも百害あって一利なしだ。

一教師が判断する見方考え方で、子どもは評価できない。

人の学びや生活を評価できるほど、私たち教師は偉くも賢くもない。その自覚を忘れてはいけない。

評価は自然と、自分でするもの。

寄り道、道草がない人生なんてやだな。

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コーヒー生活

我が家のコーヒー生活。

友人が働いているショップからのコーヒー豆

これまた別の友人オススメの電動ミル

生活の中にも友人がいる。

幸せだなって思う。

遠く離れても思われ、思われる。

一人ぼっちじゃない。

これがボクの南無阿弥陀仏

淹れ方だけが分からない。

ぶどうのたね

子どものことを知ろうとすること

「子どものことはよく分からない。」

いつも心に置いていることです。

あの子は、こうでああでってつい思ってしまうのが、僕ら教師の癖。

「そんなに簡単にわかられてたまるか。」

そんな子どもの声が聞こえてくる気がしている。大人が子どものことを分かるというのは傲慢だ。心の中なんて僕たちには見えない。

だからこそ、分からないからこそ、よく観る、いや、ぼーっと観ることが大事だと思っている。

その観察から、こう感じているのかなと予測をして、自分も即興的に関わっていく。即興は見たこと聞いたことへのリアクションだ。

その時に、相手を変えようとして関わるとだいたい痛い目に合う。だから、即興はあくまで即興、自分のモットーが即興に現れる。

モットーを作るのは、自分の経験則だ。経験則を豊かにするには、価値観の違う場に飛び込むしかない。僕は人の関わりが苦手な方だったから、本や映画から多くを学んだ。

今は頑張って違う価値観の人の輪に入っていくことを意識している。結構、面白い。自分が更新されていくのが分かる。

同時にやっぱり疲れる。自分のメンテナンス、人と関わらない時間もほしいと感じる。

今日は三重大学の学生が、卒業研究の一環で来てくれた。世代も違うみなさんから、また僕は経験知をいただいた。

大学生と子ども達は歳が近い。流行りだって理解できている。心の距離が近い。子どもには若い大人が必要だと感じる。

一方で中堅どころの僕たち世代は、ただ実践を重ね、実践の場を開いていくことが大事だと感じた。若い世代にどんどん開放していかないと。

場を開放し、いろんな人が関わるようになると価値観も変化し、僕のモットーも少しずつ変化していく。子どもの見え方も、少しずつ変わっていくだろう。

「あなたのことは分からない。だから、あなたを知ろうと思う。」

毎日、恋愛しているんだなって思う。

敬愛する石田喜美さんのブログに載せてもらっている、ある学会での子どもとの即興的な関わりについての論考。

今なお変わっていないな。

 

全国大学国語教育学会ラウンドテーブル「国語教育における即興的パフォーマンスとしての学習 」 - kimilab journal