すっかり寺子屋の先生も板についてきた。
真人君と呼ばれることにも。
基本的に、教員時代と授業スタイルも関わり方も変わらない。
ただ、今の自分の方が良い授業をしている自覚がある。子ども理解がより進んでいる。
腕が上がったわけじゃない。
なぜだろう。
それは、明確な理由があるのだ。
評価だ。学校における評価と、寺子屋の評価は違う。
学校だと評価規準たる、成績つけるための規準を設け、子どもの学びに向かう。それだと、見えなくなるものがたくさんあるのだ。
さぼる、諦める、不貞腐れる、マイナスに映る行動は、学校では評価を落とす。
しかし、ネガティブな行動は、飛躍には必ず必要なのだ。今は、それがよくわかる。
ルーブリックもCan doも百害あって一利なしだ。
一教師が判断する見方考え方で、子どもは評価できない。
人の学びや生活を評価できるほど、私たち教師は偉くも賢くもない。その自覚を忘れてはいけない。
評価は自然と、自分でするもの。
寄り道、道草がない人生なんてやだな。