【7月寺子屋プロジェクト 俳句】
7月は俳句がテーマのプロジェクトでした。
新しいチャレンジをしようと思い、夏井氏を参考に、取り合わせ俳句づくりをしました。
出来上がった作品は、どれも入賞するのではないかというクオリティですが、とにかく楽しくなさそうでした。
別の曜日のチームは、小学生が作ったいろんな俳句を読み、好きな俳句を書き写したり、翻作をしたりしました。季語なし大歓迎、字余り、字足らず大歓迎、いくつ作ってもいいし、作らなくてもいい。写すだけでもいい。
こちらは、めちゃくちゃ楽しかったです。
最後に、1人一句提出して、句会をしました。何回投票してもいい、自分のに手を上げるのもオッケー。こちらも大盛り上がりでした。
プロジェクトの難しさは、成果物を評価したくなってしまうことです。
過程が良ければ、良いものができると思ってしまうのも、残念です。
評価というのは、自分なりに満足することに定めると、良いと僕は考えています。
自分なりに一人一人が満足する授業。
B基準を定めて評価する授業より圧倒的に難易度は上がります。
要は、両方の授業ができる教師である必要があると思います。
うちの娘は、俳句に色塗りをしていました。
高田本山での説法
先日、高田本山で説法をさせていただきました。
その時、話したことを記録しておこうと思います。
テーマは「五戒を守ることができない自分」です。
仏教徒には守るべき戒律があります。不殺生戒、不偸盗戒、不妄語戒、不飲酒戒、不邪淫戒の五つです。
生き物を殺してはいけない。他人のものを盗んではいけない。不純な交遊はしてはいけない。嘘をついてはいけない。お酒を飲んではいけない。
僕がとにかく守れないのは、お酒を飲んではいけないです。夏になると、プシュッとしたくなります。
この五戒を守ることができれば、心身ともに健康になるでしょうし、よりよく生きることができるでしょう。
五戒を守ることは善いことです。
そうとは分かっていても、プシュッとしてしまう僕は宗教的悪といえます。
とはいえ、よく考えてみると、社会で生きるのであれば五戒を守ることができる人はほとんどいないでしょう。
お釈迦様は、社会を捨て出家することで、悟りを得ることができました。
僕たちはお釈迦様ではないですから、同じようなことはできません。
宗教的悪を抱えながら生きていくしかない。整わない日々を送るしかない。
仏教における善悪は相対するものではなく、善悪一如、善悪は一つのものと考えます。
悪である自分を理解すればするほど、そんな自分であっても、一人ぼっちにならない尊さに気づきます。
ありのままの自分を見つめ、あるがままを生きようとすること、そして、それを支えていく縁に満ち溢れていることに気づく。だから力強く前に進むことができる。
阿弥陀仏に委ねるとは、僕は「どんな時も、一人ぼっちにならない」ということだと僕は信じています。
そんな、話をしました。
ものみな金色
生きとし生けるものが、幸せでありますように
大人の背中〜ラッパー僧侶 古溪光大〜
どんな時でも、応援したいと思う人がいることありませんか?
あれ、なんなんだろう。
たまにある。そして、そういう人に出会えた時、すごく幸せな気持ちになります。
彼は僕と同じお坊さんです。
「YouTube始めようと思うんです。」
彼の口から聞いた時も、ポジティブフィードバックをしました。
「人の悩みに答えている僧侶っていないですよね。そもそも、それをめんどくさがってるところもあるんじゃないですか。」
まさに核心。
そんな彼が先週末、寺子屋に遊びに来てくれました。
子どもたちと思いっきり遊び、思いっきりラップし、心を鷲掴みにしていました。ほんと、かっこよかった。
光大君はどこまでも成長をしていく感じがします。ナイスガイで、仲間がどんどん増えていくタイプ。
コメント欄に彼が出版する本や、Yahoo!ニュースやテレビ出演のURLを貼っておきます。
ぜひ、見てみてください。
すごいよ、あんたは。
寺子屋の先生になれた
すっかり寺子屋の先生も板についてきた。
真人君と呼ばれることにも。
基本的に、教員時代と授業スタイルも関わり方も変わらない。
ただ、今の自分の方が良い授業をしている自覚がある。子ども理解がより進んでいる。
腕が上がったわけじゃない。
なぜだろう。
それは、明確な理由があるのだ。
評価だ。学校における評価と、寺子屋の評価は違う。
学校だと評価規準たる、成績つけるための規準を設け、子どもの学びに向かう。それだと、見えなくなるものがたくさんあるのだ。
さぼる、諦める、不貞腐れる、マイナスに映る行動は、学校では評価を落とす。
しかし、ネガティブな行動は、飛躍には必ず必要なのだ。今は、それがよくわかる。
ルーブリックもCan doも百害あって一利なしだ。
一教師が判断する見方考え方で、子どもは評価できない。
人の学びや生活を評価できるほど、私たち教師は偉くも賢くもない。その自覚を忘れてはいけない。
評価は自然と、自分でするもの。
寄り道、道草がない人生なんてやだな。